一分の救い(ノンフィクション風の物語)③
昭和の医師と令和の医師では患者から見た立場が全く違う。
いまでこそ、セカンドオピニオン(他の医師の意見)やらインフォームドコンセプト(説明と同意)なることばが一般的になってきたが、当時は患者側の知識や判断力も乏しいため、「お医者様がいうのだから・・・」というお任せ医療の色彩が濃かった。
現代で考えれば、命の選択さえもイニシアチブを医師に預けてしまうという甚だ危険な行為なのだが、昭和においては医療の進歩もすさまじく、医師の権限が強かったのも無理はない。
その風潮に「右へならへ」したわけではないのであるが、癌を切除できるという医師のことばに、手術を決意した。本人には「癌ではなく取っておいたほうが良いものが見つかった」という苦しい説明をした。
ただ、この手術には大きなリクスがあった。
当時、肝硬変と肝癌を併発している手術の例が50例ほどしかなかったことや、肝硬変の進み具合によっては、回復の度合いが著しく低くなるということなどである。
肝炎と肝硬変の違いは、ずばり「全快」できるかどうかである。
機械に例えると、肝炎は「メンテナンスを怠っていたため機能が低下して機械がまともに動かない状態」だ。つまり、油をさしてあげたりネジや歯車のバランスを整えたりすることで、機能が復活する。患者は入院して安静にし、点滴治療や栄養指導を受けることにより全快する。
かたや肝硬変は「機械が物理的に破壊されてしまい、その部品を修理しても完全には機能が復活しない状態」だ。なので同じ治療をしても壊れた細胞は復活できないため、全快は難しい。
「肝心」ということばがあるように肝臓は心臓とともに臓器の中では最も重要なはたらきを担っている。すべての臓器の中で役割が最も多い器官でもある。
その肝臓が働かなくなることは死を意味する。また、はたらきが弱まってくると全身に影響を与えることとなる。
母の肝臓はその細胞が破壊されつつある中に、癌もあったということである。
紆余曲折あったが、外科的な治療を受けるためにJ病院からT病院へ転院をしたが、そこにいる医師が手術をするわけではなく、執刀できる医師を他県から招いて手術を行うこととなった。
「もっと肝硬変が悪化していたり、癌が大きかったら手術はできない。だから手術をしてみる。」
このことは、家族には希望をもたらし、医師団にはよい研究の機会が与えられた。
だが、こんなとき家族は希望にのみ目を向けてしまい、客観的な視野を失うものである。
手術の日が来た。
母は、家族に手を振って手術室に消えていった。
だが覚悟していた以上に長い長い1日となることをこのときは知らなかった。
(つづく)